被爆体験記『8月6日の蒼い月』読書会 @寄宿生活塾はじめ塾 〜橋爪文さんのバトンを受け取る〜 《後編》


“反核・平和 海外一人行脚”で核廃絶を訴え続けてきた橋爪文さん

『8月6日の蒼い月〜爆心地一・六kmの被爆少女が世界に伝えたいこと』(コールサック社/2017)という被爆体験記があります。著者は、広島原爆の被爆者である詩人の橋爪文(はしづめ・ぶん)さん、94歳。国内だけでなく海外でも被爆体験を伝え、核廃絶を訴え続けてきた方です。


あるきっかけからこの本の読書会を企画し、2024年10月から月1回のペースで実施しています(全7回)。メンバーは、小田原にある「寄宿生活塾 はじめ塾」で学ぶ中高生7人と、橋爪さんのことを教えてくれた映画監督の纐纈(はなぶさ)あやさんと私。それから、ときどき顔を出してくださる、はじめ塾の塾長・和田正宏(わだ・まさひろ)先生。大人は3人とも50代です。


今後、この読書会の詳細はnoteか何かで公開していきたいと考えています。

その前に、この本に出合ったときから今日までを振り返ってみました。


▶︎被爆体験記『8月6日の蒼い月』読書会 @寄宿生活塾はじめ塾 《前編》



やっぱり、みんなで一緒に考えるのは楽しい

『8月6日の蒼い月』の読書会をするにあたり、この本に記されている多岐にわたる要素をなるべく取りこぼさず、いろんな視点からみた感想を共有できたらと思い、こんなプログラムを考えました。

でもいまは、回のテーマにはまっていなくても、そのときに出てきた感想や疑問を掘り下げていくほうが大事だと思っています。みんな、知りたいことを調べてきて、競うように手を挙げて発表してくれます。勢いがあって爽やかで、見ていると元気が出てきます。

読書会を終えてはじめ塾を出たあとに毎回、あやさんと私の口から出るのは、「やっぱり、みんなで一緒に考えるって楽しいねー」「若いっていいねー」という感想です。

いまでは進行役というよりも、子どもたちと一緒に勉強している感覚になっています。



纐纈あや監督、橋爪さんを追ってオスロへ

「日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞」

という朗報に世の中が沸いた2024年10月11日。あやさんから、

「文さんにすぐにお電話したところ、『生きていてよかった』とおっしゃっていました。泣けます(涙)」

というメッセージが届きました。

橋爪さんのこの一言は、改めて、その人生の重さを教えてくれるものでした。


12月10日の授賞式の日、橋爪さんはオスロにいました。NHKの生中継を観ていたら、オスロ図書館で式をパブリックビューイングしている人たちのなかに、橋爪さんの姿が。

橋爪さんのオスロ滞在中、あやさんもオスロでカメラを回していました。

橋爪さんは、被爆証言をしてほしいという要望を受けてスピーチを。その様子を、あやさんは映像におさめてきてくれました。


そんな流れから12月19日の3回目の読書会は、あやさんのオスロ報告会となりました。帰国したばかりのあやさんが、映像を編集してもってきてくれたのです。

こうして、貴重な映像を、読書会メンバーだけでなくはじめ塾の子たち全員で視聴するというスペシャルな回に。

この日、読書会メンバーの子どもたちは、さらなるインパクトを受けていました。

子どもたちはまだ橋爪さんに会ったことがなく、本人が語るのを見たのは初めて。橋爪さんの表情や語り口調など、活字から得ること以上のものを受け取り、より一層、橋爪さんの被爆体験が強烈に感じられたようです。


そして、この橋爪さんのスピーチのなかで特にみんなで考えさせられたのが、この言葉でした。

被爆者は、一人ひとり物語をもっています。それは、ちょっと現在の言葉では通じないようなことばかりです。次元が違います。

この「次元が違う」という言葉が胸に刺さりました。

表現のしようのない出来事を体験し、話しても伝わらない、伝えられないもどかしさをずっと抱えてきたのだと。


“伝えること”といえば、橋爪さんはこの本のなかに、

半世紀の歳月の後、やっと私は原爆のことが書けるようになった。聞かれれば話すこともできるようになった。

と記しています。

また、被爆体験を伝えていくことを、

生き残された者の使命

と表現しています。


よく、“被爆体験は語り継がれなければならない”といわれますが、考えてみると、当事者にとっては思い出したくもない記憶に向き合わなくてはならない、封印していたものを取り出さなくてはならない、心に負荷のかかることです。

そう思うと、被爆体験を語っていただけることが、より一層、ありがたいことに感じられます。



はじめ塾の “考現学” を取り入れてみる

この読書会を始める前に、参加してくれる子どもたちと顔合わせをした日のこと。塾長の正宏先生が、

「人って、感じていることをほとんど捨てて生きているから。1日のなかであらゆる瞬間に、たくさん感じていることがあるはずなのに、ほとんど残らない。それはもったいない」

と言って、はじめ塾の“考現学”という試みについて教えてくれました。


「考古学」に対して、現代の社会現象から世相や風俗を分析するのが本来の「考現学」らしいのですが、はじめ塾ではそれに着想を得て、“いま”自分が感じていることを“そのまま”書き留めることを“考現学”とよび、折に触れて実施しているのだそう。

そんな話を聞いて、この読書会にも取り入れることにしました。


読書会の終わりに、頭のなかにあることを白い紙に“そのまま”、とりとめなくパーっと書きます。

文章の整合性は重視せず、誤字脱字があっても問題ナシ、漢字が思い出せなかったらひらがなでOK。

子どもたちはスラスラとペンを走らせて、あっという間に白い用紙を文字で埋め尽くします。


一方で、私にとっては、“そのまま”が簡単ではなく、筆が止まってしまいます。思ったことを頭のなかで“校閲”してから表に出す癖がついていたり、綺麗にまとめようとしてしまったりするので、“そのまま”が難しい……。

この“考現学”は私にとって、そうした癖を手放すトレーニングにもなっています。



読むたびに違うところがハイライトされる

毎回、読書会の前にこの本を読み直すのですが、そのたびに、違った側面が強調されて見えてきます。


最初の頃は、壮絶な被爆体験のインパクトもさることながら、原爆投下後に橋爪さんとその家族がサバイバルしながら、たくましく生きていく描写に強く惹きつけられました。「人間とは、こんなにも強いものなのか」と。

そして、いま自分が置かれている状況がいかに恵まれているか、いかに忍耐が足りないか痛感させられ、何不自由なく生活できていることにもっと感謝しなくてはと思いました。


そこから、橋爪さんの心の痛みに視点が移っていきました。

この本のなかには、「祈り」という記述がよく見られます。橋爪さんは祈ることで、やっと自分を保てているということなのかーー。

「まえがき」で橋爪さんが表現している、

極限に近い苦しみを越えたところにある何か、人知の及ばないところの何か。悲しい優しさ、愛のようなもの

とは、どんなものなのだろうかと、わからないなりに想像してみます。


そして最近は、

被爆者が、これほど辛い生活をしていても、政府は何の援助もしてくれなかった。被爆者医療法ができて、被爆者の医療が無料になったのは、被爆後十二年経ってからだった。それまでに、どれほど多くの被爆者が亡くなっただろうか。

という記述がハイライトされ、文さんの怒りと憤りが心に沁みてきます。「なぜ、手厚い援助を受けて当然の人たちが、補償や援助を受けるために闘ってこなくてはならなかったのか」と、不条理を感じます。


それから、日常生活のいろんな場面で、この本に書かれていることや橋爪さんのことを思い出すようになりました。強烈な空腹感や疲労感を覚えたとき、思い通りにならない出来事やトラブルに直面したとき、世界で起きている紛争や、能登半島地震の被災地のニュースを見聞きしたとき、エネルギーや食糧の問題、環境問題、防衛問題の話題に触れたときなど。

そうした、この本と自分の何かが“紐づく”ことのなかに、この読書会の意味というか、大事なことがあるような気がしています。そんなふうに“紐づく”タイミングをメモしていったら、何かが見えてきそうな気がします。


1月23日の4回目の会では、子どもたちと橋爪さんの交流会を予定しています。3月の最終回には橋爪さん同席のもと、それぞれが自由研究のように調べたことを発表したり、感じたことをダンスや絵などで表現したりするのはどうか、という話になっています。それから、本に出てくる広島の街などを巡ったりする“広島修学旅行”もいいね、とか。


読書会が終わる頃には何か行動に移せたらと思いつつ、引き続き、子どもたちと一緒にこの本から学んでいきたいと思っています。