『月刊ケアマネジメント』で連載している〈幸せのためのヒント〉。
3月号では、民俗研究者を経て2009年に介護の世界に飛び込んだ、「介護民俗学」の提唱者・六車実実さんのお話を紹介しています。
偶然のような必然のような流れで介護士になったことで得た気づき、いまモヤモヤを考えていること、大切にしていることについて。
高齢者施設に広がっていた、驚きと発見に満ちた世界
研究者時代、村でのフィールドワークで高齢者に昔の話を〈聞き書き〉していた六車さん。介護士となり高齢者施設で働き始めると、そこに広がっていたのは、驚きと発見に満ちた世界。昔の話の宝庫でした。
「利用者さんたちに囲まれている毎日が、フィールドワークをしているかのように刺激的だった」と振り返ります。
そこで、
「介護現場は民俗学にとってどのような意味をもつのか?」
「民俗学は介護の現場で何ができるのか?」
という二つの方向性から問題提起をしてみようと思い立ち、〈介護民俗学〉を掲げました。
研究現場や介護現場での、多くの高齢者とのかかわりを通して痛感しているのは、「やっぱり、長い年月を生きている方たちの話は、どこかで力をくれるもの」だということ。なにげない言葉に救われることも多いと言います。
「(初代看板犬の死の悲しみに打ちひしがれていたとき)別に、私を励まそうとしてはいなかったと思うんです。でも話を聴いているうちに、元気になるというか。利用者さんが語ってくれることは、私のなかではそういうもので。フィールドワークをしているときも、そういうことがあったかも。当時は“焼畑農業について”といったようにテーマをもって聴いていましたが、思えば、そこから外れた話のほうが面白くて、心に染み渡っていたんですよね」
利用者の死のかなしみを分かち合う“儀礼”の意味
多くの介護現場では、ほかの利用者を動揺させたり混乱させたりしないようにという配慮から、利用者の死が共有されていないなか、自身が管理者として運営するデイサービス〈すまいるほーむ〉では、
「利用者さんの死が隠されると、亡くなったという事実だけでなく、その方の話題までタブー視されてしまいます。そしていつの間にか、その方の存在さえも、なかったかのように忘れ去られていく。それって、とてもかなしいこと」
という想いからあえて、利用者の死をみんなで受け止めることにしています。
リビングに、“すまいるのご先祖さま(旅立った利用者)”の“遺影”を飾る場所をつくり、〈お別れ会〉や〈灯籠流し〉などの“儀礼”を続けてきました。
「デイサービスで過ごす時間というのは、人生のなかではほんの短いもの。でもこうやって、この世を旅立っても誰かに思い出してもらえると思ったら、救われるものがあるのではないでしょうか。この写真の方々とのつながりを感じられたら、寂しくないのではないかと」
いま通っている利用者とは面識のない人の“遺影”ばかり。でも不思議と、親近感をもって写真を眺める人が多いのだとか。
「民俗学の研究をしていたときは、そうした“儀礼”を研究対象としてしかみていませんでしたが、ここで自分がつくり出したことによって、儀礼の大切さを実感しています。利用者さんと一緒に死の儀礼を続けていくことの意味というか」
と語っていました。
“つながり”とは一体、どいうものだろう?
近著『それでも私は介護の仕事を続けていく』(KADOKAWA/2023)に、“つながり”や“かかわり”をテーマにしたエッセイを綴っている六車さんですが、
「“つながり、つながり”って私は言っているけど、それって一体、何なんだろう?」
という素朴な疑問に向き合い続けているところ。
それから、こんなことも話していました。
「最近よくいわれる“居場所”という言葉を、重く感じている人もいるのではないでしょうか。『居場所をもっていないといけないのかな?』『居場所、私にはあるかな?』とか。私が使っている“つながり”や“かかわり”という言葉にも、そういう重みをもたせてしまうのは嫌だなと思っていて。もうちょっとゆるく、『別につながらなくてもいいんだよね』『つながっていてもいいし、つながらなくてもいいし』といった感じでよくて。そんなことを、これからいろんな人と一緒に考えていきたいし、伝えていきたいです」
その、「いろんな人と一緒に考えていきたい」というスタンスが心地いいです。“答えのない時代”といわれているいまに合っているように感じるからなのか。
聞けば、民俗研究者時代に大学で教鞭をとっていたときも、介護士として高齢者とかかわっているいまも、「誰か(学生や利用者など)をいい方向に導く、変化させる」ということが苦手で負担に感じるから、「一緒に進んでいきましょう」「一緒に考えていきましょう」という気持ちでいるのだそう。
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